通信ー14- 鈴木先生の教育随想
公立義務教育への危機感と教員たちへの期待
鈴木 武雄
(静岡県菊川市在住)
定年退職して17年目にもなるのに、このような表題で書くことは、見当外れと思われることでしょう。地域や経験の違いもあると思いますが、先ずは私の公立義務教育への危機感を述べ、次にそこに働く教員たちへの期待について、述べることとします。
Ⅰ.公立義務教育の現在
2020年の正月に次男が帰省し様々なことについて話をしました。その一つに子供(*私にとって孫)の教育環境についてが話題となりました。次男家族は首都圏に住んでいて、子供は地元の公立小学校に通学していました。次男は悪口など人様のことをあれこれいう人間ではありませんが、小学校教育や教員についてよい感じを持っていないようでした。むしろ不信感を持っているようでした。その一つが私に対して「お父さんはどうして教員などになったの?」という言葉でした。これは質問というよりも疑問でした。次男はもともと口数が多い方ではなく、私に意見を言うような人間ではありませんでしたので、非常に驚きました。端的に言えば、次男の現状認識では、公立義務教育学校の教員は社会的にも所得的にも低いということです。だから、次男の考えで、少なくとも自分の子供を公立義務教育学校の教員にすることなど考えられないということです。
次男の現状認識の根底にあることは、地方(*田舎)と首都圏(*及び大都市)との決定的な差異に起因していると分析しました。地方と首都圏における所得格差は最低賃金の違いとして明確にされています。一方地方において公立義務教育学校の教員の社会的な評価はそれほど低くなく安定した職業の一つと思われているからです。私自身が地方に住み地方の公立義務教育学校の教員として勤務していたから、周囲の関係性から理解できます。
Ⅱ.義務教育学校教員の現状
しかし、首都圏における公立義務教育学校の教員は、他の職業と比較して社会的地位が相対的に決して高いものではなく、むしろ低下していると思われます。その理由は民間企業など他の職業と比較して給与が高くなく、長時間労働で児童生徒の問題から、保護者の問題まで抱え、教材研究の時間を確保することもままならない状況は決定的な問題です。勤務時間を無視した生徒指導や部活動は、働き方改革を絵に描いた餅のような状況にしています。タイムリコーダーもありません。「こども達のために!」という錦の御旗の前に沈黙をしているのでしょう。 教員の働き方改革は、文科省、教育委員会、学校の管理職が意識的に本気で取り組まなければ不可能です。地域社会も保護者も、教員が勤務時間外の夜でも生徒指導に奔走し、休日に部活動の指導をするのは当然であると思っています。進路面接でも保護者の中には時間外や休日を平気で要求してくる人もいます。
Ⅲ.五十年前の地方の状況から
これは全国的な状況ですが、四十年以上も前から首都圏ほど大きな問題となってきました。それは教員採用試験の倍率の低下としても表れています。これらのことは、公立義務教育の危機といえるでしょう。公立義務教育学校の教員志望者が減ることは、目に見えない形で大きな変化をもたらします。例えば、私が若手教員時代である昭和40年代は、研究的で自己研鑽に励む同僚達がたくさんいました。例えば、考古学者としてよく知られ大学の先生方と発掘・論文を書いていた人もいました。トンボの生態を研究していた人もおりました。演劇指導に定評があり、学校の演劇部は感動する劇を見せてくれました。学級通信はガリ版刷で芸術的なものでした。もちろん、運動部も盛んで、県大会や全国大会まで出場していました。従って、校内研究も活発で、国内海外の教育論文を参考にしながら、議論をし、日々の実践活動に生かしていました。宿直もあり、夜遅くまで議論もしました。プロとして誇りを持っていた人が多かったと思います。私の数学史研究もこうした切磋琢磨する雰囲気から生まれたと思います。
しかし、この地方でも、特に平成になってから、学校現場は余裕がなくなってきました。若手の教員や新採用の教員達に、「どのようなことに関心を持っているか?」「大学ではどのような数学に興味を持って勉強したのか?」「これからどのような教育をしたいのか?」と聞いたことがありますが、はかばかしい答えが返ったきたことはありません。数学教員になったのに数学に惚れ込んでいないのです。教育することに熱量を感じないのです。
Ⅳ.現在の首都圏の塾と学校
一方において、首都圏における私立中学校入試は非常に加熱しています。その一端は二月初旬の新聞の全面に「サピックス(SAPIX)」という進学塾の広告に表れています。そこにはそれぞれ別の日ですが、開成中学校と桜蔭中学校の算数の試験問題とその下部に難関中学校への入学者数が書かれています。私は数学が専門ですが、これらの算数の問題を五十分で解答することは極めて難しいと思います。小学校の算数ですから、方程式を使えないなど解法が限定されます。通常の公立小学校で学んでいたのでは、所謂難関中学校受験問題は歯が立ちません。このように受験問題が難問化したのは、受験生を篩い落とすためです。一方で進学塾が受験問題の方向性を誘導しているとの指摘もあります。
このような中学受験の加熱は教育全体に大きな歪みを生み出していると思われます。まず、直接的には公立中学校へ入学するはずの学力的上位層が抜けてしまうことです。一般的には学力上位層が学級・学年・学校全体のリーダー層を形成して欲しいからです。ようするに学級づくり・学年づくり・学校づくり(*生徒会活動など)が困難になります。公立義務教育学校の荒廃の主因にまともなリーダー層の形成が成されないからだと思います。将来的には、地域のリーダーになり得る人材が、地域から切り離されてゆくのです。
Ⅴ.長期的な問題
長期的な視点で考えますと、もっと大きな問題をはらんでいます。首都圏の難関中学校は筑波大学附属駒場中高(*筑駒)以外は、ほぼ私立の中高一貫校(*開成、桜蔭など)です。これらの学校の上位層は「鉄緑会」という東京大学入学を目指す専門受験塾に入っています。そこでもひたすら競争に励み、東京大学へ入学・卒業し、官僚になる人もいます。国家公務員試験において財務省の面接で「どこの学校を卒業しましたか?」という質問があったそうです。大学名は「東大法学部」が当然なので、出身高校を聞かれているというのです。地方に住んでいては分からない世界です。ともあれ、こうして私立の中高一貫校から東京大学卒で官僚になり首相官邸で発案されたのが所謂「アベノマスク」であり、「アベノコラボ」「持続化給付金」「GO・TOキャンペーン」などです。庶民や地方の生活を知ろうともしない官僚達によって政策が作られているのです。これは悲劇です。政治家(*国会議員も地方議員も)、国民や市民には不要不急の外出や飲食をするなと要望しながら、自らは平気で外出し多人数で飲食もしています。これは喜劇でしょうか。
公立義務教育など彼らにとって、その財政を縮減すべき対象に過ぎないかもしれません。高級官僚たちだけでなく、世襲国会議員たちの多くも私立校の出身者たちだからです。すでにアメリカ(*USA)の義務教育は、憂うべき状況になっています。アメリカにおける義務教育の状況が日本の義務教育の行き着く先かと心配しています。
Ⅵ.公立義務教育学校の教員に期待すること
さて、時代状況も地域状況も異なりますが、私が考えているところの、義務教育学校の教員に期待することを書きます。何故なら、私自身は地方(*田舎)の公立義務教育学校で学び、その地域の髙校と大学で学んでいたからです。そして教員生活のすべてが公立義務教育学校の教員として勤務したからです。
(1).教えることと自ら学ぶこと(*研究すること)を一体化することです。このことは中村正弘先生が常に強調され実践されていたことです。大学4年間程度の知識だけで子供達・生徒達を教えつづけることは、無謀です。教科書と指導書だけで授業に臨むのは、子供や生徒達に見破られます。塾などで勉強していることと比較されているのです。少なくとも「塾の先生より、すごいな!」と思わせなければなりません。教員は学問や技能技術について尊敬に値するところが大切です。尊敬の念があって、初めて学びは成立するのです。 子供達・生徒達、そして保護者は、教員の背後にある情熱や意欲と謙虚さ、やさしさを感じ取るものです。学ぶこと研究することの難しさを知れば知るほど、謙虚でやさしくなるものです。
(2).本(*数学書を含む多様な本)を購入し、本を読み続けることです。自らに知識を注入しつづける必要があります。どのような僻地の学校に勤務してもできる方法は、本を購入し、本を読み続けることです。私は日本評論社刊雑誌「数学セミナー」は、学生時代から購読しつづけています。明治図書刊雑誌「数学教育」なども現職時代は購読していました。他に数冊の月刊誌と季刊誌も購読していました。雑誌は雑多なことが書かれていますが、新しい情報が入手できます。中村正弘先生と手紙の交換をしたとき、この数学に関する雑多な知識(?)が役立ちました。数学の本は小説のように容易に読めません。しかし、数千円を支払って購入するところが重要です。その数学の本の内容を完全に理解できるかどうかよりも、他のものに支払うことよりも優先できることこそ重要なのです。数学書の序文や後書きだけでも感動するものがあります。著者による「数学を伝えたい」という情熱が伝わってくるものです。
もちろん、教員として教育論はもとより、哲学や社会学、歴史学など人文社会科学についての本を読むことにより、子供達・生徒達そして保護者を取り巻く社会を俯瞰的に見ることができるようになります。
(3).研究会に積極的に参加することです。一人だけで、勉強や研究を続けることは、凡人には難しいことです。所属する学校から外に出て見ることです。校内研究で良しとし、満足しないことです。全国的な研究会などに参加しましたが、地域により人により、本当に様々な考えで実践していることを知りました。適当な研究会がないならば、自らが呼びかけて研究会を立ち上げればよいと思います。そのような意欲や信念こそが、子供達・生徒達そして保護者に伝わるのです。
(4).勉強し研究する仲間づくりをすることです。近隣で同じ志をもつ人達がいるものです。3人でもよいから定期的に集まって話しをすることです。「三人寄れば文殊の知恵」とい言葉があるように、集まり語り合うことは大切です。私も「たのしく分かる算数・数学の会」という雑談会のような研究会を組織していました。10数人の小中髙の教員達で1ヶ月に1度土曜日の夕方から食事をとりながら懇談をしました。実は、和算史研究もこの会の雑談から生まれたものです。お互いの学校の情報交換にもなりました。生徒指導の困難も話すことで少し和らいでゆきました。同じ学校の同僚とは違った開放感がありました。数学教育でも、いくつもの教材や教具もつくり、お互いに交換をしました。
(5).「根拠のない自信」という言葉を聞きます。教員として自信の根拠になるのは、毎日の授業のために作成する授業書・プリントも大切です。しかし、これも独りよがりになりがちです。従って、発表することです。論文として作成することです。冊子(*本)としてまとめて配布し、他の人々の意見を聞くことです。そうすることによって、改善され、ステップ・アップするものです。
(6).何よりも教えることと同時に自ら学ぶこと・研究することを愉しんで欲しいです。愉しければ継続できます。継続は形になり、それが次の飛躍につながります。
(2021年1月19日:記)


